東日本大震災から考える「日常」の尊さ(2011.04.12)

日常を奪い去った東日本大震災

 3月11日に発生した東日本大震災は、東北及び北関東の広い地域に甚大な被害をもたらした。警察庁の発表によれば、死者行方不明者は2万7千人を超え、いまだに16万人を超える方が避難所に身を寄せ、不自由な生活を強いられている。さらに、福島第一原子力発電所の事故が加わり、復興への明確なシナリオが依然として描ききれない状況にある。
 大震災は多くの命とともに、数え切れない人々からかけがえのない日常を奪い去った。
 災害や不幸に遭われた方々へは、衷心から哀悼の意とお見舞いを申し上げるとともに、一日も早く日常生活を取り戻されることを祈って止まない。

自粛がもたらす経済のさらなる下押し

 こうした中、被災された方々が「日常」を回復されるために、我々ができることは何か。被災地への義援金や物資援助などはいの一番にできることであろうが、一人ができることせいぜい数万円程度が限度だ。
 大切なのは、こうしたことにも増して、自分自身の日々の仕事をいつも以上に懸命に勤め上げるということだ。平常に働ける我々が浮き足立っていては、日本の産業全体の力が落ちてしまいかねない。
 さらに、災害当初はさまざまな催し物も、とりあえずは自粛しようというのが人情であろうが、経済活動もいち早く「日常」を取り戻すことが被災地復興のためには必要となる。経済学でよく知られた言葉に「合成の誤謬」というものがある。個々人としては合理的な行動であっても、多くの人がその行動をとることによって、社会全体にとって不都合な結果が生じてくるという意味だ。つまり、一人ひとりの節約はそれぞれにとっては美徳だが、全員がそれをやってしまうと経済全体にとっては、モノが売れずに不況に陥ってしまうということになる。今回もそれと似た事情となっており、あまりに多くの事柄が自粛・自粛となっていくと、大震災によって大きく傾いた日本経済がさらに悪化しかねない。
 ここは、お金を使うことが結果として被災地の復興に繋がることになるという気持ちで、「日常」通りの買物や催し物などを、そろそろ再開していくべき時期ではないだろうか。

自粛ではなく、日常の仕事と生活を

 朝起きて、朝食を摂り、会社や学校へ行き、家に帰り、家族と語らいながら食事をして、床につく。我々にとってこの「日常」がいかに尊いことかは、このような大惨事が起こって初めて気がつく。そしてこの「日常」は数多くの人々の日々の仕事の上に成り立っている。
「明日世界が終わるとしても、君は今日林檎の木を植える」作家の開高健が生前、色紙などに好んで書いたと言われる言葉である。このタイミングで「世界が終わる」というフレーズはややはばかられる表現だが、要するに、どのような事態においても我々ができることは、自分の仕事を以って一端を照らすことであり、つつましいながらも日々の糧を買って生活をしていくことだ。
 我々が今行うべきは自粛ではなく、日常の仕事と生活を踏ん張っていくことであり、その彼方に初めて明日の光が見えるのだと思う。

(初出)南信州新聞「八十二経済指標」(2011年4月8日)

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