先人に学ぶ「産業を地方に残すという大仕事」(2009.10.20)

大きな変動の中で長野県でのものづくりも大きな曲がり角に 

 今回の不況において、アメリカに代わる世界経済の牽引役として中国、インド等の新興国が俄然注目を集めてきている。また、円高も進んでおり、まさに「いつか来た道」を見る思いがする。それは長野県内でものづくりの空洞化が問題視された2000年ごろの状況であり、新興国での現地生産が加速されていく時期である。
 実際に最近、県内の企業の皆さんに話を聞くと、取引先企業から市場に近いところでの生産の優位性や円高を背景に中国やインドに工場を造らないかという誘いもあるという。
 いったい、長野県の製造業はどうなってしまうのか、と不安は募るばかりだ。
 そこで、長野県の産業史の中から、戦時中の疎開企業を引き止め、長野県に新産業を根付かせた執念とも呼べる話を紹介したい。

終戦とともに疎開企業は閉鎖の危機 

 長野県の製造業の基盤が戦中の疎開企業からなっていることは周知のことだが、これらの企業が長野県に残ってくれた背景には、地元の人々の熱い情熱があったからこそだ。
例えば、いまや長野県が誇るグローバル企業「セイコーエプソン株式会社」。
 セイコーエプソンの前身は服部時計店の製造部門の第二精工舎だが、戦局が進む中、被害を免れるために諏訪、桐生、富山、仙台に分散疎開をした。諏訪疎開に当たっては、当時の宮坂諏訪市長も加わり、熱心な誘致活動が行われた。そこには、製糸業に代わる付加価値の高い産業として諏訪に時計工業を立上げ「東洋のスイス」を実現したいという熱い思いがあった。同社を受け入れたのが、市長と共に誘致に懸命となった山崎久夫さんの大和工業だ。
 大和工業は山崎さんが服部時計店の下請けとして始めた工場で、第二精工舎の疎開後の昭和19年には1,800人が働く規模になった。ところが、20年に終戦、諏訪工場に動員されていた人員は戦後復興のため東京に戻ることになった。諏訪工業は閉鎖されてしまう危機に陥った。。

山崎久夫さんの疎開企業を引き止める悪戦苦闘が始まる

 諏訪に工場を残してもらうためには、空襲を受けた東京の工場より早く、より良い時計を作り、実績を上げることだと考えた。昼夜をついで機械を整備し、不具合は腕と精神力で作り上げるという状態のなか、翌年には女性用の腕時計が完成、半年後には男性用を完成した。
 これらの腕時計は東京でもその性能の良さが認められ、品質の良さからセイコーブランドとして急成長した。そして、昭和22年には500人を超える従業員となり、昭和31年には53万個の生産規模となった。諏訪の地に時計産業が根付いたのである。
 注目すべきは、山崎さんが東京から疎開してきた時計技術者を大切にしたこと。戦後、食料の入手は困難だったが、地元に知人のいない疎開者のために、近くの農家から米や野菜など食料確保に奔走し、提供した。また、「東京から来た人たちには諏訪の寒さはこたえるだろう」と薪の確保にも努めた。
 同時に服部時計店には、「諏訪から工場を引き揚げるなら腹を切る」と訴え続け、工場が火事にでもなればそれを口実に工場を引き揚げられかねないと、真冬の夜中でも工場を見て回った。
 その熱意に感動し、東京からの疎開者達は「諏訪で時計を作ろう」と決心したのだった。
 結局、第二精工舎の4ヶ所の疎開工場のうち、戦後も疎開先に留まったのは諏訪だけだった。こうした情熱がセイコーの世界初のクォーツ開発にも繋がっていく。
 これは、きれいごとでも何でもなく、企業誘致を進めたり企業の海外移転を阻むものは地元の熱意があって初めて叶うものだということがわかる。「腹を切る」と言わんばかりの気迫が必要なのだ。円高に負けない長野県の熱意というものを地域は見せていきたい。

(2009.10.20)

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